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diary

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わたしはわたしの為になりそうなことに興味を持つようにしたりしている。

それから、何年もお世話になっている医師からは『貴方は随分落ち着いた』と言われることが増えた。

数年前では分からなかったり、できなかったことが、きっと今なら分かったことも、できることも増えた。

それは自分の努力や、医師や心理士の尽力があってのことだと思う。

その上で、ここ最近、薬で自分の落ち着きが格段に感じられるようなことがあった。

感情とはなんなのだろうか、と、ふと思ってしまった。

薬は今も大量に飲んでいる。

本当に何もできないくらい病状が重かった時、薬の効果を感じたことはなかった。ただ希死念慮の中にいた。

頓服を2本も3本も飲んだこともあったけれど、良くも悪くもなった記憶がない。

あの時はどうだったのだろうか。

わたしの体感としてないだけで、希死念慮の中で、薬による変化はあったのだろうかと、何故か考える。

それでもわたしを引き止めたのは、苦しみへの恐怖と、それから、父からの抱擁だったと思いたい。

落ち着いてる気持ちの今の自分自身に違和感があって、その反面、生活は安定してる。

相変わらずPMSは顕著なので、今はあまり絵や漫画を積極的に描けないけれど、全く描けない、というところまではいかなくなった。

薬を開発した人も、それを処方する医師も、すごいことだと思う反面、今のこの違和感がある程に落ち着いた自分が、薬の力を大幅に借りているかも知れないことに、何か不安になる。

薬を大量に飲んでいることにではなくて、自分が自分でいることの意味というか。

不便が減った生活は、本来快適な筈なのに、これも不幸の再演を望んでいるだけで、不便な自分を望んでるだけなんだろうか。

でもちょっと違う気がしてると、落ち着いた頭のわたしは思う。

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再演

『自分は苦しまなきゃいけない』と、無意識下に思っていたことに最近気が付いた。
自分が苦しむ方に自分を巻き込ませようとしてる時がある。

『不幸な方が落ち着く』ことを、わたしが読んだ本には『不幸の再演』と書いてあって、もう何年も前に納得したつもりだった。

でも。
『不幸な方が落ち着く』というよりも、『自分は苦しまなきゃいけない』の方が状況としては適切な気がした。

自分が自分を苦しませる理由がどこにあるというのだろう。
今の状況は自分が選んだ。提案してくれる人がいた。助けてくれる人がいた。わたしはその手を取った。

随分苦しんだ上に今の選んだ生活があるのに、何故自分を苦しませようとするのだろう。
その人たちに失礼? それもちょっと違くて。
自分で選んで違うと思うのなら、今から違う選択をすれば良いのに。
自分にできる範囲で、というのは、誰しも同じでしょう。
わたしには少し、目に見えない不自由があるだけで、それを責められる所以はないし、それを責める人や否定する人とは、関わらない方がいい。

そして、そうやって自分を苦しめることが自分に必要だと今もどこかで思ってる。
少しずつ自分と話し合っていこうと思った。

この家は出れない。
自分は健常でなく、病気他が沢山ある。
いつ再発のような状況になるか分からない。

どうしても叶えたいことがある。

むかしばなし

昔話をさせて。

 

わたし病気で2年くらい色んなもの抜け落ちてるんだけど、その中で描いた絵。それ以前と比べて描けなくなってて、当時はそれも苦しかった。でも少しずつ描いてた。

当時、わたしを励まそうと、友達が沢山の漫画を貸してくれた。でも、結局、一冊も読めずに、何度も謝って全て返した。

カフェに連れ出してくれた友達もいた。話を聞くのがつらかった。わたしには話すことが何もなかった。何度もお手洗いに行った気がする。

そんなぐらいのときに読んでたのがゴクオー君だった。

自宅療養だったから、このままじゃダメだって常に思いながら、なんとか出来たのは一人で本屋に行くこと。そこで表紙買いした本。

10年前ということを差し引いても、すっぽり抜け落ちてる感じがある2年がある。

それは母の死を起点とした前後一年ずつ、といった感じだと思う。

母がいつ死んだかも、わたしはもう覚えてないし、今もまだ気が狂いそうになるから、確認することも出来ないんだけれど。

でも、それがやっと最近、正しく向き合えつつある気がした。

だから、最後まで読めてなかったゴクオー君が今のわたしなら読めると思います。

(ごめんなさい、色々思うところがあって、最後まで読めなかった)







無題

植物の話なんだけど。
日本で一年草だとされている植物を、ワンシーズン楽しむのが園芸として最も手軽で妥当なんだと思いました。
ただ、わたしは植物が枯れることにも心が痛む、まして、環境さえ整っていれば多年草として生きられる植物が日本で枯れるのは、人間側の都合だと思っているからです。
薔薇は、地植えスペースがあり、良好な日照が最低条件。且つ、自分の土地の雪に耐えられる品種か、そもそも雪を凌げる立地である必要があります。
うちの場合は、庭が壊滅的に日照時間が短く、まともに日が当たる場所には、さくらんぼの木が1本、あじさいが2本植わっていて、かなり大きく、周辺の土はさくらんぼの根に支配されています。
なので、薔薇を植え替える場所が無いんですよね……。
ぶっちゃけてしまうと、植物の面倒が見切れなくなっているので、少しずつ減らしています。
そして、今ある分も何とかしたいんだけど、枯れるのは心が痛むっていうわたし側の事情でぎりぎりのところで世話をしている感じです。
ただ、年々夏が厳しくなるにつれ、水やり頻度が高くなるものの、わたしもずっと家にいる訳じゃないので、去年も毎日のようにしおれては、水をやって復活、っていうのを繰り返していました。
なんか、本当に心が痛む……。

多肉植物は、増えすぎない範囲でのんびりやっていますが、どれも小さめなので、減らしていきたいとは思っています。

がじゅまる、薔薇×2、アラビアンジャスミン、不夜城、レインリリー、この辺りかな、困ってるのは。
自分で買ったものも結構あるな……。こんなに大きくなると思わなかったんですよね……。
他には、雪兎耳、八千代、エケベリア、マミラリアが沢山、ビーンズレーマニー(これも増えつつある)、他名前の分からないサボテンたち。
一時期、増やした多肉植物を通販で売ってたときもあったけど、『いやこれ一般家庭でやることじゃないな!?』ってなったし、ベビーサンローズが増え過ぎて大変なことになったのでやめました。

とはいえ植物は命なので、わたしのところに来たのは不運だったかも知れないが、出来る範囲で世話していこうと思います。

薔薇に関しては、家族が買ってきた5本の内、3本は枯れてた状態から持ち直させたんだよわたしが……枯れるがいやだったから……別に家族は花を捨てることに何とも思わない人みたいだから、放っておけばよかったのかも知れないけど。

無題

ってしてたら家族に勧められた食事をまた断り切れず、やや体調を崩しました……断れない……次は断る……。