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diary

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『わたしが』

アンチョビ君のことは今も大好き。

ただ、わたしの中で答えが出てしまった。

色々漫画を描いて、でもまだ答えが出なくて、まだ描きたい、描ききってないと思ってた、わたしから見たアンチョビ君の。

彼は完全に架空の存在だった。わたしの夢であり希望だった。

わたしが死ねばよかったんだと、教えてくれた存在だった。

‪わたしが死ねばよかったんだと知ったとき、わたしは‬安心した。解放された気持ちになった。緊張が解けた気がした。

死ぬ気なんて、さらさらないけど、わたしが死ねば解決するこの世界で、それでも生きていくことの意味を考えた。

そして、彼に生きて、幸せになってほしいと思った。

同時に、わたしが死ななくても良いことを証明してほしかった。アンチョビ君は、わたしの希望だった。

(現実から目を逸らしたのかも知れない)

アンチョビ君に夢を見ていた。

わたしが死ななくてもいい世界を夢見ていた。

(何年経っても変わらない世界。

口頭弁論を聞きに裁判所へ、報告会へ、勉強会へ、交流会へ、足を運ばなくなって久しい。何の、何が、とは言わないけれど、世界は変わらず、差別に溢れている。)

アンチョビ君を愛している間、わたしは苦しみを抱え続けていた。世界への憎しみでもあったのかも知れない。

その苦しみや憎しみと共に、アンチョビ君を愛していた。

アンチョビ君は、わたしの苦しみを、明確な形あるものにしてくれた。

アンチョビ君を見ていて、そして、現実の世界でも色んな変化や出会いや別れがあって、その中でわたしの、『わたしが死ねばよかったんだ』という感情は和らいでいった気がした。

『わたしが死ねばよかったんだ』

『生きて、幸せになって。わたしが死ななくても良いことを証明してほしい』

そんな身勝手で一方的な想いを、彼に寄せ続けていた。

そんなネガティブにも受け取れる想いがなくても生きていけるなら、わたしは少し成長したことになる筈なのに。

それどころか。

今まで使っていた杖を無くしたような、ずっと寄りかかっていた手すりを失ったような、そんな気持ちになった。

少なくともわたしにとって、

『わたしが死ねばよかったんだ』

この安堵の感情と、それによって現実を見ずに済むことは、良くも悪くも劇薬だったのだと思う。

(本当に限界だった10年以上前、紐に首を掛けたものの、足を離せなかったり、致死量の醤油に至っては、封を開けることさえ出来なかったので、わたしは本当に自死は選べない人間にも関わらず)

『死ななくてもいいことが分かった今、わたしはどこへ行けばいいのか?』

『この感情に誰が寄り添ってくれるのか?』

そんな風に自分勝手に迷子になりながら、自分の問題と、キャラクターへの感情を切り離せずにいる。それはまだしも、自分の感情に、キャラクターを使い捨てていないか? ということに、これまた頭を悩ませている。

アンチョビ君のことは大好きだよ。

どうかどうか、幸せになってほしい。

ただわたしの中で答えが出てしまった。

彼と出会った時の、『わたしが死ねばよかったんだ』という、わたしにとっての熱烈な感情。それはそれ自体が恋ですらあったかも知れない。

『わたしは死ななくていいんだ』という答えを、自分自身で見付けてしまった。

架空の存在だった彼が、間接的に、現実に近付いた気がした。

そうして、少しだけ現実に近付いた彼を、わたしはこれから、どんな形で描けるだろうか。

今は、心も身体も動かなくて、いずれにせよ何も出来なくて、考えることすら出来ないんだけど。

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