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diary

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愛の形

https://x.com/mtrock_/status/1797822674452017356?s=46&t=Ar5GDsXYR2Si7wIuBsAUQw

この記事、自分のお母さんのこと思い出して、泣いてしまう。

逆だけれど、わたしの父は、どちらかというとこういう側面のある人だと思った。

母の病気が悪化する一方だった時、父が医師に『先生、本当は他に治療法があって、でもそれが莫大な金が掛かるから提案しないだけなら、気にせず教えてください。妻の病気が治るなら、全て投げ合って、いくらでも払います』と言ったこと。

わたしは、そばで黙って聞いていた。

BJの世界みたいだと思ったけど、BJはいなかった。

医師の答えは『××さん(父の名前)、この世にはまだ原因の解明されていない病気がたくさんあるんです。奥様の症状もそうです。治療法が確立されている病気の方が少数だと思ってください』だった。

長い看病生活、父は毎日、母のそばにいた。

亡くなった後、仏壇の前を埋め尽くすほどの大量の花と、毎日早朝から何時間も仏壇前で線香を上げ続けたこと。

恋文ではないけれど、それらが何より父から母への思いを語っていたように思う。

今でも涙が出る。
母が亡くなったことにも、その後の父の姿にも。

わたしは今も自分のことでいっぱいいっぱいだと痛感する。

母が最後にわたしにくれた言葉をわたしは知っているけれど、父と母は、どんな話をしていたのだろうか。

それは聞いても良いんだろうか。

母が父をどう思っていたかは、ついぞわたしには分からなかったから。

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わたしはわたしの為になりそうなことに興味を持つようにしたりしている。

それから、何年もお世話になっている医師からは『貴方は随分落ち着いた』と言われることが増えた。

数年前では分からなかったり、できなかったことが、きっと今なら分かったことも、できることも増えた。

それは自分の努力や、医師や心理士の尽力があってのことだと思う。

その上で、ここ最近、薬で自分の落ち着きが格段に感じられるようなことがあった。

感情とはなんなのだろうか、と、ふと思ってしまった。

薬は今も大量に飲んでいる。

本当に何もできないくらい病状が重かった時、薬の効果を感じたことはなかった。ただ希死念慮の中にいた。

頓服を2本も3本も飲んだこともあったけれど、良くも悪くもなった記憶がない。

あの時はどうだったのだろうか。

わたしの体感としてないだけで、希死念慮の中で、薬による変化はあったのだろうかと、何故か考える。

それでもわたしを引き止めたのは、苦しみへの恐怖と、それから、父からの抱擁だったと思いたい。

落ち着いてる気持ちの今の自分自身に違和感があって、その反面、生活は安定してる。

相変わらずPMSは顕著なので、今はあまり絵や漫画を積極的に描けないけれど、全く描けない、というところまではいかなくなった。

薬を開発した人も、それを処方する医師も、すごいことだと思う反面、今のこの違和感がある程に落ち着いた自分が、薬の力を大幅に借りているかも知れないことに、何か不安になる。

薬を大量に飲んでいることにではなくて、自分が自分でいることの意味というか。

不便が減った生活は、本来快適な筈なのに、これも不幸の再演を望んでいるだけで、不便な自分を望んでるだけなんだろうか。

でもちょっと違う気がしてると、落ち着いた頭のわたしは思う。


再演

『自分は苦しまなきゃいけない』と、無意識下に思っていたことに最近気が付いた。
自分が苦しむ方に自分を巻き込ませようとしてる時がある。

『不幸な方が落ち着く』ことを、わたしが読んだ本には『不幸の再演』と書いてあって、もう何年も前に納得したつもりだった。

でも。
『不幸な方が落ち着く』というよりも、『自分は苦しまなきゃいけない』の方が状況としては適切な気がした。

自分が自分を苦しませる理由がどこにあるというのだろう。
今の状況は自分が選んだ。提案してくれる人がいた。助けてくれる人がいた。わたしはその手を取った。

随分苦しんだ上に今の選んだ生活があるのに、何故自分を苦しませようとするのだろう。
その人たちに失礼? それもちょっと違くて。
自分で選んで違うと思うのなら、今から違う選択をすれば良いのに。
自分にできる範囲で、というのは、誰しも同じでしょう。
わたしには少し、目に見えない不自由があるだけで、それを責められる所以はないし、それを責める人や否定する人とは、関わらない方がいい。

そして、そうやって自分を苦しめることが自分に必要だと今もどこかで思ってる。
少しずつ自分と話し合っていこうと思った。

この家は出れない。
自分は健常でなく、病気他が沢山ある。
いつ再発のような状況になるか分からない。

どうしても叶えたいことがある。

雛鳥

庭の木が生い茂ってた頃は、毎年、鳥が巣を作りに来て、でもそこは他の鳥の標的にされやすかったのか、上手くいったのは一回だけ。
でも、巣立つ瞬間を見た時は泣きそうな程感動したよ。
雛鳥三匹の内、一匹だけ飛ぶのがすごく下手な子がいて、その子がうちの屋根に何度も頭を打ち付けるから、頼むから死なないでくれ、って祈りながら見てたら、遂に地面に墜落して、暫く動かなくなっちゃって、どうしよう、そっと巣に戻してあげたら、親鳥が看病してくれるだろうか…って迷ってたら、親鳥の片方が墜落した雛鳥に飛び寄って、一緒に低い柵まで飛んでいった。その子は暫く、低い位置、近距離で、何度か行ったり来たりしてた。
言語というコミュニケーションツールを持たなくても、鳥は愛情と生き方を知っているのだなと思った。
朝から練習が始まってて、夕方には雛鳥も親鳥もいなくなっていた。たった一日で飛べるようになるんだってことと、その間ずっと見守っている親鳥に、なんか感動した。

【感想】ウソツキ!ゴクオーくん第115話

この話は完全に初見でした。
感想書くかどうか迷ったけど。
嘘の付けない舌になった状態での最後のセリフが物凄く刺されますね。この漫画の根底の設定の理解があるからこそ感じる痛みだと思いました。

わたしが前戸くんだったら、相手に大切なものをありったけ持ってこさせて、それを目の前で『自分で壊して』って言うと思う。
同じではないけど、目に見えない傷で、取り返しのつかないもの。
何より、自分のリスクを最小限に抑える選択をすると思う。最低だとは思う。

でも裏を返せば、自分の人生に大切なものがあるから、相手の人生にも大切なものがあって、それが渾身のダメージになると思ってるからで。
ちょっと逸れたけど、そういうことを考えさせられた。

殴るという選択への言及は、わたしには難しい。

1巻から読んできて、これだけ長く見てきたキャラに対して『明確な理由を持って、このキャラが嫌い』と思ったのは初めてだった。
そう思わせられることも漫画家としてすごい技量だと思います。
現実には、人は滅多に変わりはしない。
だからこそこのお話がしんどいと思ったのだと思います。