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- Date:2025年02月03日
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その中に、『両足欠損+車椅子』というものがあって、これが非常に表現としては慎重を要するものだと思っています。
わたしが非常に萌える『両足欠損+車椅子』は、特に、元々は五体満足であったキャラクターが、何らかの理由で、膝の少し下辺りでの切断を余儀なくされ、その世界観では車椅子で生活するしかない、または、義足の技術を持つ世界観であるが、それを得るだけの金銭的余裕がなく、車椅子生活を余儀なくされる状態を指します。
わたし自身に、車椅子に何か思い入れがあるかというと、そういう訳ではありません。
では、切断(欠損)についてはどうかというと、こちらは心当たりがあります。
とはいえ。
まず大前提として、現実の肉体的・精神的な苦しみに対し、差別・揶揄する意図は一切ないことを表明しておきます。
わたしは、出来る限りあらゆる理解を示し、適切な表現が必要であると考えています。
『身体完全同一性障害』を知った時、わたしはいたく世界が開けた気持ちになりました。
わたしは五体満足です。そして、自分のその身体を不完全な身体であるとは思いません。
しかし、五体満足に生まれながら、その身体に違和感を覚え、『足はこのくらいの長さがいい』と望む人に、鮮烈な衝撃と、羨望と、親近感と……と、とにかく色んなものを感じました。
わたしが読んだ記事でインタビューに答えていた人は、『完全な自分の身体』になる為に、自らの両足を壊死させ、切断する他ない状態で病院に行く、という方法で、自分の望む身体を手に入れていました。ただ、その記事の最後には、僅かな後悔を語る文面も見られました。
思いの真相は分かりません。ですが、その記事を読む中で、両足を失うこと、欠けた状態が完全な状態であること、という事への感情があまりに強過ぎました。
わたしが過去に書いた二次創作で、両足を失う話は、望まぬ形での喪失でした。なので、『身体完全同一性障害』の話ではありませんでした。
ただ、そこはわたしの、夜明けのおたくとしての性質が発揮され『望まぬ形で喪失したが、その不自由さを抱えて実現できる幸せとは何か』という事だったのだと思います。
なので、『両足欠損+車椅子』という状態への萌えは、上記が組み合わさって形成されているのだと思われます。
両足が無いことに苦しみ、不自由や不便、痛みを感じている人はこの世に決して少なくない数いらっしゃると思います。
だから、創作での取り扱いは慎重に慎重を要するものと思っています。
それでも、自分の好きなキャラクターが、両足を失って尚、車椅子に座って笑っている姿は、わたしにとって特別な萌えだと思いました。
話は少し逸れますが。
わたしは子供の頃、『わたしの心はこのくらい欠けてる方がいい』と思う基準がありました。『身体完全同一性障害』への親近感は、ここにあったのだと思います。
そう思うに至った経緯は、ついぞ誰に言うでもなく、わたしは大人になりました。
そして、これだけは、はっきりと言えることは、わたしの心は、わたしの望んだ通りの形で、最初から欠けていました。
欠けた状態になることで、本当の自分になれる人もいることでしょう。
けれど、やはり、その是非はわたしには分かりません。
当事者であって尚。
『自分の足はこのくらいの長さがいい』と、自分の本当の姿が最初から分かっている人に、わたしはいたく憧れを持ってしまう。
隣の芝はいつも青い。
前提として、わたしは公式様が大好きで、公式様が全てであると思っています。
その上で、わたしの思うクロノ君とアンチョビ君を描いています。
また、ラフでも最後まで公開したのは、ページ数的にわたしのキャパを越え始めていたことと、公式様の新規情報で齟齬が増えていくのが嫌だったからです。
本題。
まず後編の結論の話から。
あの話の後編の結論は、
『兄のことは許せない、でも幸せでいてほしい』
『心から愛する家族だけど、一緒にはいられない』
です。
とはいえ。
『絶対許さない』と言いながら、あのアンチョビ君は、もう兄のことを手放しているし、気のおけない相手(クロノ君)との世間話で、何気なく言えるようになったことが、彼の何よりの成長だと思っています。
あの状態のアンチョビ君の前に、兄が現れることがあったとしても、アンチョビ君は穏便に対応できると思います。兄の正義を否定も肯定もしない。それ以外のことで揉めることもないし、アンチョビ君が何かを要求することもないでしょう。
ブラレ第1巻を見る限り、元より、兄は、自分の正義にアンチョビ君を付き合わせる気はないのだと、わたしは解釈しています。だとすれば、兄側からの衝突も生まれません。
そんな、兄との決別は、きっとアンチョビ君が思っていたよりも、あっさりとしたものになるでしょう。それと同時に、自分が抱え続けていた執着の重さを再認識し、そこには苦しみも含まれることでしょう。けれど、そこからもきちんと(比較的早い段階で)復帰できると思っています。
もしも、兄が、アンチョビ君について何か考えることがあるとすれば、世界が平和になった後なのだと思います。
あれだけ望んだ平和な世界で、手の届く場所に最愛の弟はいないこと。それは物理的な話ではなく、弟が見てる景色が、自分とは違うものになったのだということ。
そうして、自分は弟に何をしてやれたのか? 弟は自分に何をしてくれたのか? その意味と価値について考え、気付いてほしいと思います。
きっとこれは、わたしの願望(妄想)が特に色濃く出ているところだと思います。でもわたしは、そう思わずにはいられない。
兄もまた、弟から手を離さなければならない。弟は手を離すことを選んだのだから。
コロッケのこと。
恐らく、元の世界で『友達』に一番近い存在は、コロッケだと思います。
ただ、あらゆる理由から対話は難しいでしょう。
そもそも、あの二人は、戦うことが主なコミュニケーションになっているという面があります。それはバンカー同士だからであり、双方の生い立ちの噛み合い方がそうさせるような気がします。
アンチョビ君も、バンカーとして戦っているときは本当に楽しかったのだと思います。けれど、その結果が自死だとすれば、それはやはり、アンチョビ君にとって健全な関係とは言い難いとわたしには思えてならないのです(客観的、社会的に見ればの話で、アンチョビ君が完全に納得した上での自死だったとは思っています)。
クロノ君のこと。
クロノ君も友達がいなかった過去があり、4年間の巻戻士本部で歳相応の交友関係を持つ機会があったかというとそうではなかったと思います。
それでも、その根底にあるのは優しさであり、歳に似合わぬ程に他者の話を聞く能力のある子で、クロノ君はとにかく優しくて頭の良い子なのだと思っています。顕著な不器用さはあるかも知れませんが……。
優しくて頭が良くて不器用。この言葉は、アンチョビ君にも当てはまるものだと思っていますが、二人の持つ優しさ、頭の良さ、不器用さは、言葉では同じでも、性質の違うものだと思っています。そして、それが上手いこと噛み合っていって、友達になっていくこと。それが前編で描きたかったことです。
クロノ君のことについては、もっと言及したかったのですが、性質上、どうしてもアンチョビ君がメインの話になりました。
というのも、クロノ君は公式様において、主人公であるからです。
『運命の巻戻士』自体が、彼の為の物語であり、彼の成長と、彼が願う幸せへの道筋は、今も綴られ続けているのです。
その点に関して言えば、少なくともわたしにとって、二次創作の余地はありません。
彼は確実に成長し、確実に願いへと歩みを進めています。
しかし、アンチョビ君はそうではありません。
アンチョビ君は主人公でなければ、彼の成長や歩みは、その断片でしか描かれることはありません。
その空白の部分を、クロノ君と共に描くことで、アンチョビ君を幸せにしたい。
これまでわたしが描いたどの二次創作よりも、アンチョビ君が幸せに近付くことを、執筆中に何度も感じました。それを見付けられたのは、クロノ君のお陰です。
アンチョビ君は捻くれてもいるから、息を吸うように一言一言に嫌味を込めてしまうことがあります。ただただ不器用な少年です。
でも、クロノ君は、余程のことがない限り、他者の悪意に反応を示しません。その機微へ反応しなさ過ぎるところは、ときにクロノ君の不器用さの一つであるとわたしは思います。
そこは、二人の不器用さが、上手く噛み合ったところだと思っています。
二人が休日に出掛けるシーン、あれは少しクロノ君を饒舌めに描きました。もちろん、シライに頼まれた訳ではなく、クロノ君なりの歩み寄りです。
でもそれは、ここではアンチョビ君に逆効果になってしまう。
でも、『友達がいなかったこと』という共通点が、二人をギリギリのところで引き戻します。
クロノ君が泣くのかどうか……。
この部分は自分としても非常に悩んだところです。
そしてこれは、作中通して気を付けていたことなのですが……。
クロノ君、及び、運命の巻戻士という作品自体を、アンチョビ君の為の舞台装置にしないこと。
これだけは強く意識して執筆していましたが、わたしの力不足は、自分では感じています。
それでも、頂ける感想は、クロノ君も、アンチョビ君も、らしさが出ていたと、色んな方から頂いたので、わたしが思うよりは、描けていたようです。
友達という存在になったクロノ君とアンチョビ君について。
アンチョビ君は、
『兄にこうしてほしかった』
その気持ちを友達であるクロノ君に向けそうになります。巻戻士になりたいと思う前向きな自分を、即答で応援してほしかった、クロノならきっとそう言ってくれる。そんな過剰な期待を持っていました。でも、そうはならなかったことで、アンチョビ君は、また自分が同じ過ちを繰り返そうとしていたことに気が付きます。
兄に変わってほしいと思ったことが誤りだったように、友達に、自分が思った通りの答えを過剰に期待し過ぎることは健全なことではありません。
アンチョビ君が、そう思い改めるところも描きたかったところの一つです。
誤解があったところだけ見ればただの遠回りですが、これもアンチョビ君が幸せになる為に必要だと思ったことをわたしなりに表現した部分です。
巻戻士試験については完全に捏造です。
らしさを意識しながら、わたしが想像し得る妥当なラインを精一杯描いたつもりです。
そして、その中で、アンチョビ君が自分の過去と今と未来を、冷静に、丁寧に、考えていくこと。
漫画としての表現力は改善点も多いのですが、わたしの描きたいアンチョビ君を描けたのだと思っています。
冒頭で言った通り、わたしは公式様が全てだと思っています。そしてそれは、公式様を否定したくないと思っているということでもあります。
ただ、漫画は物語性が強く、特に今回のお話はクロスオーバーであることも相まって、『否定的な話になっていないか?』ということは、わたしは今でも答えが出せないでいます。
答えを出すようなことではないのだとも思います。
何故ならこれは二次創作漫画であり、わたしという存在を通したクロノ君とアンチョビ君であるのだから。
だからせめて、わたしが思うのは、わたしが色んなことを願って描いた漫画が、できるだけ人様の目にポジティブなものに映っていますように、ということです。
そして、叶うならそれぞれの公式様で幸せなクロノ君の姿も、幸せなアンチョビ君の姿も、見たい。
今回のクロスオーバーと、他の場所に置いてあるものや、二次オリも含めると『コロッケ!BLACK LABEL』の二次創作だけで300ページくらい描いたんじゃないかな……。
自分でも一つのジャンルでこんなに描いたのは初めてです。
自分の描く二次創作の主題についても色々考えるところはありますが、長くなったので今日はここまで。
ありがとうございました。
また次回。
需要があるのか、ないのか、そんなものは作品が発表されてから、いくらでも分かることで、そして、需要がなかったとしても、否定していい理由にもなりません。
否定的な言葉を唱えている方、それは、その作品から、『貴方は消費者として想定されていません』ということだと思っています。
ディズニー程の大きなコンテンツだからといって、この世の全ての人の需要にマッチすることは出来ません。
生み出される以上、その作品を作りたいと思った人がいる(または、需要があると思った人がいる、商業的にヒットすると思った人がいる)のでしょう。それを否定することは誰にも出来ません。
まして、人種を理由をキャスティングに異を唱えることには、違和感があります。
この話を綴りたいと思ったきっかけは、リトルマーメイド、白雪姫、美女と野獣もそうですけれど、今回は、パークにいるラプンツェルが白人ではないことに否定的な意見が集まってる……という話を見てのことです。
否定的な意見の方の主張を見てたら、『元作品に忠実な容姿にしてほしい』という意見が多そうだったけれど、そもそも『ディズニーのラプンツェルは、グリム童話のラプンツェルの内容に忠実ではない』んです。
もとは民話とはいえ、話を考えた人がいて、それを伝えた人がいて、それを書籍として纏めた人がいるグリム童話を元にして、必ずしも忠実ではない作品を描き、それが賞賛されることはいいのですが、そこからまた派生していく(組織としては同じでも)表現に対して、ここまで否定が集まる……なんか、目も当てられないなって思います……。
日本の劇団四季のリトルマーメイドを、わたしは、『わたし(日本人)向けだ』と思いました。それと同じで、他の国の方が演じられたリトルマーメイドを、主演と同じ国の方は『自分向けだ』と思うのではないかな?と思います。だから、パークのラプンツェルも同じで、嬉しい人も必ずいるのだと思います。
わたし、子供の頃は『ディズニーランドの白雪姫やシンデレラは何で日本人じゃないんだろう』と思っていました。
これは『日本人はお姫様になれないのかな』という疑問だったようにも思います。日本にも、かぐや姫のようなお姫様はいるけど、わたしは、和装のお姫様じゃなくて、洋装のお姫様に憧れていたので。
だから、その人種の為に作られた新しいプリンセスではなく、既存のプリンセスを、多種多様な人が演じる意味は、確かにあるのだと思っています。
少なくとも、幼い頃のわたしの疑問は解消しました。
それでも『原作に忠実に』という意見……だったら、アニメ映画で、アリエルは自殺して泡になって天に登った方がいいし、ラプンツェルも一人で出産して7年もの孤独な育児をした方が原作に忠実なのですが……という気持ちになってしまいます……。
別件! 別件と言われても! 原作のラプンツェルが好きなわたしからしたら、ディズニーアニメのラプンツェルは逸脱し過ぎなので、わたし向けではないし、わたしは見れないので見ないのです。だから、人種が違うことで納得がいかない人は、パークのそのラプンツェルに会いにいかなければ良いだけのことで、否定など言わなくていいのです……。そこで否定を唱えるのは、自分が『ディズニーのラプンツェル』というコンテンツの想定ユーザーから外されたことに怒ってるだけなように見えるのです……。
パークは、いつ、どのキャストさんがいるかは分からないので、『ラプンツェルに会いたいけど、このキャストさんがいい』とかは無理なんです。それは人種とか関係なく。
それでもこの話題は平行線なんだろうなあ、と思いながら、多様性の難しさを感じました。