[PR]
- Category:
- Date:2025年01月24日
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
その中に、『両足欠損+車椅子』というものがあって、これが非常に表現としては慎重を要するものだと思っています。
わたしが非常に萌える『両足欠損+車椅子』は、特に、元々は五体満足であったキャラクターが、何らかの理由で、膝の少し下辺りでの切断を余儀なくされ、その世界観では車椅子で生活するしかない、または、義足の技術を持つ世界観であるが、それを得るだけの金銭的余裕がなく、車椅子生活を余儀なくされる状態を指します。
わたし自身に、車椅子に何か思い入れがあるかというと、そういう訳ではありません。
では、切断(欠損)についてはどうかというと、こちらは心当たりがあります。
とはいえ。
まず大前提として、現実の肉体的・精神的な苦しみに対し、差別・揶揄する意図は一切ないことを表明しておきます。
わたしは、出来る限りあらゆる理解を示し、適切な表現が必要であると考えています。
『身体完全同一性障害』を知った時、わたしはいたく世界が開けた気持ちになりました。
わたしは五体満足です。そして、自分のその身体を不完全な身体であるとは思いません。
しかし、五体満足に生まれながら、その身体に違和感を覚え、『足はこのくらいの長さがいい』と望む人に、鮮烈な衝撃と、羨望と、親近感と……と、とにかく色んなものを感じました。
わたしが読んだ記事でインタビューに答えていた人は、『完全な自分の身体』になる為に、自らの両足を壊死させ、切断する他ない状態で病院に行く、という方法で、自分の望む身体を手に入れていました。ただ、その記事の最後には、僅かな後悔を語る文面も見られました。
思いの真相は分かりません。ですが、その記事を読む中で、両足を失うこと、欠けた状態が完全な状態であること、という事への感情があまりに強過ぎました。
わたしが過去に書いた二次創作で、両足を失う話は、望まぬ形での喪失でした。なので、『身体完全同一性障害』の話ではありませんでした。
ただ、そこはわたしの、夜明けのおたくとしての性質が発揮され『望まぬ形で喪失したが、その不自由さを抱えて実現できる幸せとは何か』という事だったのだと思います。
なので、『両足欠損+車椅子』という状態への萌えは、上記が組み合わさって形成されているのだと思われます。
両足が無いことに苦しみ、不自由や不便、痛みを感じている人はこの世に決して少なくない数いらっしゃると思います。
だから、創作での取り扱いは慎重に慎重を要するものと思っています。
それでも、自分の好きなキャラクターが、両足を失って尚、車椅子に座って笑っている姿は、わたしにとって特別な萌えだと思いました。
話は少し逸れますが。
わたしは子供の頃、『わたしの心はこのくらい欠けてる方がいい』と思う基準がありました。『身体完全同一性障害』への親近感は、ここにあったのだと思います。
そう思うに至った経緯は、ついぞ誰に言うでもなく、わたしは大人になりました。
そして、これだけは、はっきりと言えることは、わたしの心は、わたしの望んだ通りの形で、最初から欠けていました。
欠けた状態になることで、本当の自分になれる人もいることでしょう。
けれど、やはり、その是非はわたしには分かりません。
当事者であって尚。
『自分の足はこのくらいの長さがいい』と、自分の本当の姿が最初から分かっている人に、わたしはいたく憧れを持ってしまう。
隣の芝はいつも青い。