忍者ブログ

diary

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


倫理。

https://x.com/niwakasennpei01/status/1815216488972001696?s=46&t=Ar5GDsXYR2Si7wIuBsAUQw

このツイートの話。

自分で言いたくないけど、過去、仕事でうまくいかなかったの、結構これもあったなと思う。シフト制で引き継ぎの時、わたしがいつもやってる仕事量渡したらアホ程揉めた。

ただ、同じわたしでも『その程度なのか』と判断する上司と、『そんなにできるのか』と判断する上司は存在する。

自分の生い立ち的に、『その程度なのか』と言われることが極端に恐ろしいので、自分を卑下し続けることしか出来なかったんだと思う。

その原因である家族に、今もわたしの選択を全否定されることはあるし、そんなに言うなら責任取れよ、と思うけど、何というか、結構前から、家族は責任を取るつもりで否定も肯定も心配もしてくれているようなので、わたしももう何を言ったら良いか分からない。

家族は確かにわたしを愛してくれていると思うんだけど、家族はわたしに対して、失敗し続けていると思う。家族が思う程、わたしは倫理的ではない。

今よりもっと若い頃、わたしは家族に激昂したことが何度かあって、要旨としては、『自分が普通でないのは、貴方の教育が失敗したからだ』というものだった。

家族があまりにも『常識』や『普通』をわたしに語るので。

しかし、わたしが激昂する度に家族は丸くなった気がする。歳の所為も大きいと思うけど。

そうかと思えば。

わたしの人生に色々あって、『もっと普通の人間に生まれたかった』と大泣きした日、家族はわたしを抱き締めて、わたしのどこがどう普通なのか、どこもおかしくないのだということを語ってくれた。

わたしの欲しかった答えかどうかは別として、家族は確かにわたしを愛してくれているのだと思う。

わたしはあまり倫理的ではないと思う。

これも卑下に該当すると思うから、あまり口しないようにしているけれど。

そう考えていることが、事あるごとに酷くストレスになっている気がする。

どう倫理的でないのか、もちろん言うことは出来ないし、整合性の取れた嘘は、酷く頭の領域を奪うので、なんだか疲れているのかも知れない。

別にわたしのやっていることは、正しくはないが間違ってもないのに、こんなに自分を責めるのは、何なのか。

納得いってないだけなきもする。いつになったら納得できるのか。

今日も心はあまり動かなくて、絵や漫画は描けないし、苦しい日々が続いてること、ここに書き記しておく。



職場がなくなるけど、ブランク無しで次の仕事も決まった。
心配事なんて何もないんだけど。

今はわたしの心が動くものを、手探りでも探していくしかあるまい。

PR

希望的観測






 

1枚目…『コロッケ!BLACK LABEL』第3巻18ページ

2枚目…『コロッケ!』第9巻160ページ

3枚目…『コロッケ!BLACK LABEL』第44話17ページ

4枚目…『コロッケ!』第12巻13ページ

画像は上記より引用。

この要素から、次回、Dr.フォアグラーが来るのでは、と、僅かな希望を抱いています。

1枚目は、第2回 次の王様だ〜れだ大会の際に、参加者を島へと運んだドローンです。2枚目の、Dr.フォアグラーがピザの斜塔で使用していた浮遊する監視ロボにそっくりです。

Dr.フォアグラーは、過去、グランシェフ王から禁貨ゴーグルの開発を頼まれる程の人間なので、発明品のノウハウがグランシェフ王国に渡り、それが何百年と受け継がれていたとしても何ら不思議ではないものの、敢えてほぼ同じデザインであることに期待をせざるを得ないのです。

無印で怖い影を背負ってる描写はDr.フォアグラーだけだったと思われます(ざっくり確認)。

表現としては大分掛け離れていますが。

ネームの『またあんたか』のセリフや、その手前で描かれた足元から、もう一人のシャトーブリアンが共存していた可能性は薄いのかなと思いました。

特に『またあんたか』のセリフは自己とは断絶された存在への言葉のように受け取れました。

寧ろここで登場するキャラの候補、他に誰がいそう……!?

新キャラの可能性も、ビシソワーズや、BB7の残りのメンツの可能性も勿論あると思うけれども!


『運命の巻戻士』2024年8月号感想

個人的にハイドの最後の主張は納得いきませんでした。15年掛かっての告白でも。それだけのことをしてしまっていると思うから。

しかし、物語としての着地は綺麗だったとは思います。

個人的にチャイヌが苦手なタイプのキャラなこともあり、ハイドやチャイヌの単体として見ると楽しめてないのですが、『運命の巻戻士』という作品の全体として見るとかなり面白くて楽しめました。

チャイヌの最後のページの笑顔も、個人的には理解が出来なくて……。

チャイヌが苦手なのは本当に申し訳ない。わたしとしても好きになりたいけど、これだけはどうにもならなかった。チャイヌを好きになる感性がないことが悔しい。

チャイヌのプレゼンがあったら読んでみたいです(チャネエやチャニイではなく、あくまでチャイヌの)。

15年、長かったろうか、どうなんだろう。話としては短く流されているけれど、隻腕の隊長と、拘束した状態で口を割らないハイドとの生活は、一方通行で途方もなくて苦しい気持ちになりました。

まさかこんな形で隊長が生きているとは思わなかったので、話の構成、幕引きとしては本当に凄いと思います。

他の方の感想でお見掛けしたのですが、同一人物が同時に存在することが可能、ということは、トキネを救う際はクロノも二人存在することになるのか?というのは気になるところ……。その場合、トキネが死んだ後の世界を生きるクロノの世界線が否定できないってこと??とか。

許す方向のクロノは、クロノらしくて、主人公らしくて大好きですが、それで絶対に収まらない、武器を構えた巻戻士たちが、雑誌を考えると今までの風潮とは違って、コロコロなんだけどこれまで通りではない結論がよかったと思いました。

ヒヤマさん!!!

ヒヤマさんがめちゃ好きなタイプの予感がしているので、みんなが武器が構えているシーンでデカめに描かれてて嬉しかったです!

次号の紹介ミニBOOKは楽しみ過ぎます。

全員楽しみだけど、キバク……! キバクの新情報あったら嬉し過ぎだけどでも本編でしっかりやってほしさもあるので、心がふたつある状態です。

ワンオクロックに回収された意味が本当に知りたいので、もう、本当に……。

というか、ハイドのことも、ワンオクロックは迎えに来なかったんだなと思うと、いよいよキバクの特別感が増してきて、頼む、頼む何があってくれ……!ワンオクロックとの間になんかあってくれ……!と願わずにはおれない日々です。


怖い

ここ最近の元気な時と元気じゃない時の振れ幅がやば過ぎるし、スパンが短過ぎる問題、改めて自分がどうなりたいか考えた結果、病気等が快方に向かって元気でいる時間を増やすことが一番なので、それ以外の為のことができていなくても、今は動ける時は元気でいる為の行動に振っていこうと思った。
絵や仕事や今後のことで考え込み過ぎるのやめよう。今と、ちょっと先の未来の自分が元気でいる為に、出来ることしよう。
前からあるにはあったんだけど、ここ最近顕著なのが、絵を描くのが怖い、です。

『わたしの心はこのくらい欠けてる方がいい』

性癖パネルトラップをきっかけに、自分の性癖について改めて考えてみました。

その中に、『両足欠損+車椅子』というものがあって、これが非常に表現としては慎重を要するものだと思っています。

わたしが非常に萌える『両足欠損+車椅子』は、特に、元々は五体満足であったキャラクターが、何らかの理由で、膝の少し下辺りでの切断を余儀なくされ、その世界観では車椅子で生活するしかない、または、義足の技術を持つ世界観であるが、それを得るだけの金銭的余裕がなく、車椅子生活を余儀なくされる状態を指します。

わたし自身に、車椅子に何か思い入れがあるかというと、そういう訳ではありません。

では、切断(欠損)についてはどうかというと、こちらは心当たりがあります。

とはいえ。

まず大前提として、現実の肉体的・精神的な苦しみに対し、差別・揶揄する意図は一切ないことを表明しておきます。

わたしは、出来る限りあらゆる理解を示し、適切な表現が必要であると考えています。

『身体完全同一性障害』を知った時、わたしはいたく世界が開けた気持ちになりました。

わたしは五体満足です。そして、自分のその身体を不完全な身体であるとは思いません。

しかし、五体満足に生まれながら、その身体に違和感を覚え、『足はこのくらいの長さがいい』と望む人に、鮮烈な衝撃と、羨望と、親近感と……と、とにかく色んなものを感じました。

わたしが読んだ記事でインタビューに答えていた人は、『完全な自分の身体』になる為に、自らの両足を壊死させ、切断する他ない状態で病院に行く、という方法で、自分の望む身体を手に入れていました。ただ、その記事の最後には、僅かな後悔を語る文面も見られました。

思いの真相は分かりません。ですが、その記事を読む中で、両足を失うこと、欠けた状態が完全な状態であること、という事への感情があまりに強過ぎました。

わたしが過去に書いた二次創作で、両足を失う話は、望まぬ形での喪失でした。なので、『身体完全同一性障害』の話ではありませんでした。

ただ、そこはわたしの、夜明けのおたくとしての性質が発揮され『望まぬ形で喪失したが、その不自由さを抱えて実現できる幸せとは何か』という事だったのだと思います。

なので、『両足欠損+車椅子』という状態への萌えは、上記が組み合わさって形成されているのだと思われます。

両足が無いことに苦しみ、不自由や不便、痛みを感じている人はこの世に決して少なくない数いらっしゃると思います。

だから、創作での取り扱いは慎重に慎重を要するものと思っています。

それでも、自分の好きなキャラクターが、両足を失って尚、車椅子に座って笑っている姿は、わたしにとって特別な萌えだと思いました。

話は少し逸れますが。

わたしは子供の頃、『わたしの心はこのくらい欠けてる方がいい』と思う基準がありました。『身体完全同一性障害』への親近感は、ここにあったのだと思います。

そう思うに至った経緯は、ついぞ誰に言うでもなく、わたしは大人になりました。

そして、これだけは、はっきりと言えることは、わたしの心は、わたしの望んだ通りの形で、最初から欠けていました。

欠けた状態になることで、本当の自分になれる人もいることでしょう。

けれど、やはり、その是非はわたしには分かりません。

当事者であって尚。

『自分の足はこのくらいの長さがいい』と、自分の本当の姿が最初から分かっている人に、わたしはいたく憧れを持ってしまう。
隣の芝はいつも青い。