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- Date:2025年01月24日
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だから思い出のお菓子も、工場で作られてるような、そういうものになりそうなところなんですけれど、一番の思い出のお菓子はきっとマカロンなんです。
家の近所に、ホテルに卸してるような洋菓子の工場があって、たまに工場前で割れとかを売ってくれてたんです。で、母は珍しい物が好きな人だったから、わたしを連れてよく買いに行っていました。
それで母が、あんまり常連になるものだから、工場長さんが出てきて、『今、焼いたばかりです』って言って、焼きたての温かくて柔らかいマカロンの片割れをくれました。
あれがすごくすごく美味しかった。
本来の食べ方ではないのかも知れないけれど、とにかくすごく美味しかったし、工場長さんのご厚意も嬉しかった。お母さんとの思い出のお菓子だということもあります。
でも、あれを生涯でもう一度味わえることはないだろうとも思います。
パティシエさんが作った出来立てのマカロンなんて、なかなか食べられる物じゃない、というのも勿論あるけれど、母はもういないし、みたいなところかな。
お母さんの笑顔がそこにないのなら。
工場は今もあるけど、いつの間にか工場前での販売はやめちゃってました。
※
それ以外だと、子供の頃、セーラームーンが大好きで、ピンバッチのおまけが付いたお菓子を沢山開封させてもらってた気がします。記憶が曖昧なくらい小さな頃。
もちろん、父が、店頭に並べる用に仕入れた物だけれど、わたしが欲しがると、なんやかんや最後はわたしに与えてくれてた気がします。
ピンバッチは今も大量にわたしの引き出しに入っています。
思い出って、何かと場所を取るものですね。
だから少しずつ、自分が元気になれるように、形のある思い出の品を手放していってる最中だし、わたしにはその必要があると思うんですけれど、あのピンバッチは一生手放せない気がします。
※
両親がお店を辞める時、いつもお菓子が所狭しと並んでいた棚に、日に日にお菓子がなくなっていく。
子供心にショックだったのを覚えています。
何にショックを受けたのかは分からないけれど、わたしの機嫌を取ろうと、親の仕事仲間の人がくれたいちご味の飴は、申し訳ないけど全然おいしくなかったのを覚えています。
そういう経緯もあって、カシバトルを読んでいて、『お菓子を売れない大人たち』の描写が入ると、全然状況は違っても、わたしはなんだか悲しい気持ちになりますね。
からっぽの棚はかなしい。
※
蛇足。
『××(兄の名前)がいてくれたら、おれももう少し楽が出来たかも知れない』
大人たちの商売の話は、当時のわたしにはまだ難しくて、分からないことも多かった筈ですが、この言葉の意味はよく分かりました。
わたしには兄がいました。わたしが生まれる前に亡くなっていて、歳の差は13歳でした。もし生きていたら、両親が店を辞めた時点で、10代後半くらいだったことでしょう。
父はきっと、兄にあとを継いでほしかったのだと思いました。でも兄は亡くなってしまった。一人娘であるわたしは、まだ幼かったし、わたしはそのとき、自分が女子であることを初めて強く自覚した気がします。
兄が生きていたら、父は商売を辞める決断をしなかったでしょうか。
わたしの名前は、兄が亡くなったところから始まる由来の名前で、わたしは自分の本名が大嫌いです。
会ったこともない兄に、わたしは今も嫉妬している。
病気だった兄は、わたしのように好きにお菓子も食べられなかった子供だったろうに。
ぜんぶほしい。わたしはいつもそう思う。わたしはいつも欲張りです。