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diary

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泣いてばかりだ。

母の死から10年くらい経ったけど、最近ようやく初めて線香を上げた。
少し成長したと思う。
10年も掛かったのは、心底、悪かったと思う。

母が死んだ直後、仏壇前に花が溢れた。
父が毎日買ってくるから、置ききれない花を綺麗なまま捨てていく。花が溢れて姿が半分見えない横顔の父は、一日中線香を上げて、ただ仏壇を見ていた。
そんな父がいなくなってしまうのではないかと、わたしは毎日怖かった。

父は、沢山の親族を見送った。
わたしが主治医に、『じゃあ誰が父を見送るの』と泣くと、主治医はすぐに答えた。
『貴方のお父さんは、誰かを見送る度に、少しずつ自分のことも手放していっているのだと思うよ』と。
納得はしたけど、涙が止まらなかった。

『記憶の内、美しいものだけが思い出になれる』
わたしは、いつか出した同人誌のクライマックスにそう書いた。今もそう思っている。
父も母も毒親であることには変わりないけど、わたしの口から出るのは思い出ばかりなんだ。
母は、わたしの着る服や靴に制限を付けて、手紙も碌に出せず、遠出しようとすると泣いて夜も眠れないと言う人だった。
父は、思ったような答えが返ってくるまで納得せず、酷く叱責する人だ(今は大分柔らかくなった)。

わたしが落ち込んでいるとき、両親はわたしを外食に連れて行ったり、パチンコに連れて行ったり、カラオケに連れて行ったりした。
ひどく落ち込んでいるときは、保険屋さんに連れていってくれた。
そういう人たちなんだ。

母は朗らかで、誰からも愛される人だった。
断ることが苦手で、涙もろかった。
父は勤勉で、とにかく自営で働き詰めだった。
反面、人に雇われることの出来ない人だった。

確かにわたしは、この人たちの娘なのだろう、というくらいには、わたしの顔は両親ともに似ている。
けれど、わたしは、両親の悪いところばかり受け継いだような気がしてならない。
もっと母のように愛される人に、もっと父のように勤勉な人に。
でも本当は、そんな人になりたくないような気もする。

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最近のわたし



自分でも何言ってんだって感じなんだけど、だいたいこんな感じなので、わりと困ってます。
医者の目指す寛解と、わたしがこういうわたしになりたい、という像がズレてることが分かったので、『どの薬が悪さをしているのか?』と日夜、薬を抜いたり飲んだりやってたら(!本当はやっちゃだめです!)、『自分の身体で人体実験している…!』って突っ込まれてしまいました。

近況

正式に診断下りた訳じゃないんですが、経験者なのでほんのり分かります。鬱状態に近い日が続いてて、新しい仕事に慣れないのと、前の仕事が恋しいのとで……。
前に寛解したときに『もう二度となる気がしない』と生き生きと仕事も遊びも楽しめていただけに……。
何かを楽しむ心が枯渇していているのを感じる。アニメや漫画やラジオを楽しめている筈なんだけど、元気な時と違う。
転職が得意な人も少数派だとは思うけど、いくらなんでもわたしは転職が下手過ぎる。
時には無理矢理にでも気力を振り絞らなきゃだよね。

『わたしが』

アンチョビ君のことは今も大好き。

ただ、わたしの中で答えが出てしまった。

色々漫画を描いて、でもまだ答えが出なくて、まだ描きたい、描ききってないと思ってた、わたしから見たアンチョビ君の。

彼は完全に架空の存在だった。わたしの夢であり希望だった。

わたしが死ねばよかったんだと、教えてくれた存在だった。

‪わたしが死ねばよかったんだと知ったとき、わたしは‬安心した。解放された気持ちになった。緊張が解けた気がした。

死ぬ気なんて、さらさらないけど、わたしが死ねば解決するこの世界で、それでも生きていくことの意味を考えた。

そして、彼に生きて、幸せになってほしいと思った。

同時に、わたしが死ななくても良いことを証明してほしかった。アンチョビ君は、わたしの希望だった。

(現実から目を逸らしたのかも知れない)

アンチョビ君に夢を見ていた。

わたしが死ななくてもいい世界を夢見ていた。

(何年経っても変わらない世界。

口頭弁論を聞きに裁判所へ、報告会へ、勉強会へ、交流会へ、足を運ばなくなって久しい。何の、何が、とは言わないけれど、世界は変わらず、差別に溢れている。)

アンチョビ君を愛している間、わたしは苦しみを抱え続けていた。世界への憎しみでもあったのかも知れない。

その苦しみや憎しみと共に、アンチョビ君を愛していた。

アンチョビ君は、わたしの苦しみを、明確な形あるものにしてくれた。

アンチョビ君を見ていて、そして、現実の世界でも色んな変化や出会いや別れがあって、その中でわたしの、『わたしが死ねばよかったんだ』という感情は和らいでいった気がした。

『わたしが死ねばよかったんだ』

『生きて、幸せになって。わたしが死ななくても良いことを証明してほしい』

そんな身勝手で一方的な想いを、彼に寄せ続けていた。

そんなネガティブにも受け取れる想いがなくても生きていけるなら、わたしは少し成長したことになる筈なのに。

それどころか。

今まで使っていた杖を無くしたような、ずっと寄りかかっていた手すりを失ったような、そんな気持ちになった。

少なくともわたしにとって、

『わたしが死ねばよかったんだ』

この安堵の感情と、それによって現実を見ずに済むことは、良くも悪くも劇薬だったのだと思う。

(本当に限界だった10年以上前、紐に首を掛けたものの、足を離せなかったり、致死量の醤油に至っては、封を開けることさえ出来なかったので、わたしは本当に自死は選べない人間にも関わらず)

『死ななくてもいいことが分かった今、わたしはどこへ行けばいいのか?』

『この感情に誰が寄り添ってくれるのか?』

そんな風に自分勝手に迷子になりながら、自分の問題と、キャラクターへの感情を切り離せずにいる。それはまだしも、自分の感情に、キャラクターを使い捨てていないか? ということに、これまた頭を悩ませている。

アンチョビ君のことは大好きだよ。

どうかどうか、幸せになってほしい。

ただわたしの中で答えが出てしまった。

彼と出会った時の、『わたしが死ねばよかったんだ』という、わたしにとっての熱烈な感情。それはそれ自体が恋ですらあったかも知れない。

『わたしは死ななくていいんだ』という答えを、自分自身で見付けてしまった。

架空の存在だった彼が、間接的に、現実に近付いた気がした。

そうして、少しだけ現実に近付いた彼を、わたしはこれから、どんな形で描けるだろうか。

今は、心も身体も動かなくて、いずれにせよ何も出来なくて、考えることすら出来ないんだけど。


声が聞こえない。

頭の中にずっと声や会話が聞こえていて、それは自分だったりキャラクターだったり誰かを想定していたりするのですが、それが聞こえなくなった辺りからどんどん具合が悪くなってます。

もう一度聞こえるようになる方法を聞いてみたい。『頭の中で声や会話が聞こえる』ことへの心当たりがある方から。

でも、自分が聞こえてた頃に同じ質問をしても、『自動的だから』と某ラノベみたいな答えを返しそうで、自力で答えを探すしかないかも知れないとも思っています。

自動的な声や会話が聞こえない=その分の頭を突然使わなくなった、ことに、日々のつまらなさを感じているような気がするので、いつか他に楽しみを見出して慣れる可能性はあるのかもですが、現状、非常に苦しくて記事にしました。

原因も自分なりに考えて、色々改善を試みていますが、心も身体も上手く動かないときがあります。

持病で飲んでいる薬が、物凄く増えてしまったので、それが原因の場合、わたしでは如何ともし難くて……。

劇薬みたいなハマれる新しい何かが必要なのかも、とも思います。